世界旅日記

フィリピン人と結婚した日本人妻によるハロハロ(雑記)ブログ

ヒジャーブ一考−宗教的アイデンティティと差別・抑圧について

 フィリピンのイスラム教徒の友人がイスラムの女性がヒジャブムスリムの女性が頭を覆うもの)を着る権利やその認識を高めようとFacebookのページを開設しました。
Be A Hijabi For A Day

 そこで、わたしがヒジャブを着ている姿(Facebookにいくつかアップしておりますが)をページに載せて欲しいとの頼まれました。写真だけぺたっと貼り付けるだけではなく、コメントも載せないと、どうしたものかと戸惑いました。だって、宗教の話ってセンシティブですから。
しかし、フィリピンだとまだヒジャブを着ている人って少々いろんな意味で差別的に見られる場合が多いことを聞いているため、フィリピン社会の中で異なる宗教理解へとつながればと思い、写真とコメントを投稿協力をすることにしました。

 ヒジャブについてイスラムの友人に尋ねると、コーランの一節に女性の信者に対して、「美しいところは人に見せぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう。」との記載がありそこからヒジャブやブルカなどを纏うようになったと聞きました。しかし、この「蔽い」と書かれているものは厳密にヒジャブなど明記されてない聞いたことがあります。ただ、現在ムスリムの友人の多くがヒジャブを着用しており、ムスリム女性にとって欠かせないアイテムと思われます。マザーテレサが言ったことは、わたしがもし●●に生まれていたら、尼になっていたでしょう−と言われたことがあるそうです。恐らく彼女が言いたかったことは、どこの国でどういう環境に生まれ育とうとも、神様に仕える(仏教に神様はいませんが)そして人に仕える立場で生きただろうと言いたかったのではと思います。カトリックのシスターである彼女が公の場でそのようなことを言うことは一部の人から反感、批判を受けたかもしれないけど、やはり真摯にミッションに忠実に生きている証だったのではないかと思われます。

 私の宗教のスタンスは緩いと言ってしまえばそれまでなのですが、一種の道徳性に則って生きていることが大切で、どの宗教の何の宗派に属しているということはあまり問題ではないと思っています。さらに言うと、大部分が生まれによって決まるものを差別の対象にすべきではないと思っています。

 ヒジャブの着用について冒頭でセンシティブと書いたのは、解釈が分かれ各地で賛成反対を含む議論が激しく買わされためです。ヒジャブやブルカ(全身を覆い目のみ見せるもの)の着用が共同体の中の強制であり女性の抑圧的シンボルとなる可能性もあること、また顔が隠れていると本人確認がしずらい、車の運転が危険、服の下に爆弾を持っている可能性もあると様々な理由からここヨーロッパの各国では、主に学校など、公の場でのブルカの使用国によってはヒジャブの着用が禁止されています。ただ、女性抑圧だ!と決め付けてしまうと、「選択」の上での着用という点を見逃してしまうかもしれません。

 昨年フィリピン南部、ミンダナオ島西部の都市ザンボワンガの学校がムスリムの学生のへジャブの着用を禁じて物議をかもしだしました。学校側のポリシーに対してNational Commission on Muslim Filipinosは学校が独自のポリシーを作るのはよしとしつつ、へジャブ着用禁止は現存するポリシーに逆行する措置であることを指摘しました。教育省のポリシーでは女子学生のへジャブ着用は認められています。しかし学校側は学校が作ったポリシーに従うべきと頑とした態度を変えず、またこ教える生徒を選ぶということは教育の自由の一部と切り返しております。

 禁止は強い社会的な縛りです。禁止とすることは公がある行動によって何らかの不利益が生じてしまう時にされるべきであり、ヒジャブ着用がそれに該当するとは思えず、新聞の記事を読んで違和感を感じました。

 宗教は「生まれ」によって決まる場合が多いのではないかと周りを見回して感じます。成長の過程や大人になった後に人生観の変化や結婚などを通じて改宗が起こったりするケースはあるもののそれはマジョリティではないでしょう。例えば、フィリピンは90%近くがクリスチャンで、80%以上がカトリックです。もし、一般的なフィリピン人の家庭に生まれたらかなり高い確率でカトリックになります。恐らくお隣のインドネシアの一般家庭に生まれたらかなり高い確率でイスラム教徒になっていたのではないかと思います。人によっては私は●●教徒になるべく運命づけられたと!強く自覚的に思っている人もいるかと思いますが、私の基本的な宗教に属する人を見つめる目は生まれた家庭が持っていた宗教を引き継ぐ「消極的選択」、その中で全員ではないものの●●教徒としての自覚を強めていき、「積極的選択」に変わっていく、そんな具合です。

 「積極的選択」に変わるきっかけは様々で、また時にドラマティックだったりするかもしれませんが、それは日常的な積み重ねの中にあるのではないかと思います。例えば、うちの旦那はカトリックで毎週欠かさずミサに行き、ご飯の前はお祈りをして、何かあるときには神様ありがとうって口に出したりします。イスラム教徒の友人はムスリムの5行を実践しつつ、その意味を深め学んで行きます。ヒジャブを被ることもそうかもしれません。フィリピンのような蒸し暑い場所でなるべく肌を出さない服装でかつヒジャブ着ることはある種の忍耐が必要です。はじめはある種強制されていたのかもしれません。例えば日曜日にミサに行くというのは子どもとしては遊ぶ時間を削らないといけない、ヒジャブを被るのは遊ぶ時に暑くなってもしかしたら邪魔なのかもしれません。その中で自分なりに意味を見つけていくのかもしれません。ヒジャブ着用がもし良き宗教人としての実践を促す、「積極的選択」の結果としてであればよいのではないかと思います。

 ヒジャブ着用を切り口として、フィリピンならばマジョリティであるクリスチャンたちのムスリムへの理解。まだまだ、フィリピンではムスリムへの風当たりが強いように感じます。学生寮での受け入れを拒まれたり、タクシーの乗車拒否をされたり、解雇されたりしたケースを聞きました・・・それだけでなく、ムスリムのクリスチャン理解、双方の理解につながれば良いと密かに思い、これから写真を投稿します。