世界旅日記

フィリピン人と結婚した日本人妻によるハロハロ(雑記)ブログ

EDSA革命とそこから思うこと

 2月25日はフィリピンではエドサ(EDSA)革命の27回目の記念日です。1986年2月22日に起こった国軍改革派将校の決起から25日のアキノ政権(現フィリピン大統領のお母さん)樹立に至るまでフィリピンで発生した革命を指します。エドサとは全長約23キロのマニラの幹線道路の一つエピファニオ・デ・ロス・サントス大通りの通称で、革命時に100万人の群衆がエドサ大通りに集まり、マルコス独裁政権を無血で打倒しました。フィリピン人が誇りとするひとつの歴史の出来事かと思われます。

[マルコス政権]
 1965年に接戦の末、マカパガル大統領(前フィリピン大統領のお父さん)を破り大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、東南アジア条約機構(SEATO)において所要な役割を果たし冷戦下において反共産主義の姿勢を強く掲げ、アメリカとその同盟国諸国との関係を強固なものとしました。1969年の大統領選挙ではこれまでの政策が評価され、再選されたとも言われていますが、研究者によると、勝利のために使われた選挙資金は国家の外貨準備を利用するなどして勝利を確実なものにしていったなど、国家の私物化がだんだんと顕著になっていきました。フィリピン史上初の大統領の再選です。ちなみに現在の法律では大統領の再選は認められておらず、1期(6年)のみのお勤めとなります。
 再選後、フィリピン経済の陰り、学生運動の過激化、国内政治では大統領三度目の再選を憲法に入れ、政権の存続を目論むマルコス派とそれに反対する反マルコス派の争いも激しくなりました。そこでマルコス大統領は共産主義の過激化を理由に戒厳令を敷きます。戒厳令とは 戦争やクーデターなどが起こった場合に兵力で一部地域または全国を警備する為に国民の権利の一部を停止し、司法権や行政権などを軍隊の管理下に移行させることをいいます。国民の保護を名目にしていますが、実際この戒厳令の名のもとで多くのジャーナリスト、活動家、政権に意義を唱える人たちが、国外追放、投獄、拷問、処刑されました。勿論それらは正当な法的手続きを経てなされたものではありません。知人で教授の女性が旦那さんを戒厳令の時に亡くしたと聞いてます。今でもその時の被害者による訴訟は解決を見ておりません。存命するイメルダ婦人(マルコス大統領の奥さん)への訴訟は数百件にもなるといいます。

[革命前夜]
 上院議員ベニグノ・アキノ・ジュニア(通称ニノイ、現大統領のお父さん)はマルコス政権に反対し、他の活動家や政治家がそうであったように投獄されたものの、マルコス大統領は結局国民に人気のあるニノイを殺すことはできず、心臓のバイパス手術を理由に渡米を許されます。家族を引き連れてアメリカで亡命生活を送りますが、その先でも反マルコスの活動を継続します。
 「帰国した場合命の保証はできない」とマルコス大統領から警告を受けまた、本人も危険を知りつつ、フィリピンへの帰国を決断し、1983年8月21日に亡命先のアメリカから中華民国台北経由で帰国しました。この時用いたパスポートは身分を隠すため偽名のものでした。マニラ国際空港に搭乗機が到着し、機内から警察官に連行されボーディングブリッジ脇の階段を降りた直後に射殺されました。ニノイ上院議員は同乗したジャーナリストに何があってもカメラを回し続けて欲しいと言ったそうです。カメラはニノイの暗殺のシーンを捉えることはできませんでしたが、その場の臨場感を世間に広く知らせました。マルコス自身が暗殺の指示を出したのか明確ではなかったにせよ、この暗殺事件を機に一気フィリピンが反マルコスへと傾きます。これまで散発的であった反マルコス運動が全国に広がっていきました。

[革命]
 ニノイ議員暗殺への疑い、爆発しそうな国民の不満、国際社会の目を気にして、人気も半ばマルコス大統領は大統領選挙の実施を発表しました。この選挙の対抗馬として上がったのが、政治経験ゼロのニノイ上院銀の未亡人コラソンアキノ(通称コーリー)婦人です。本人は政治を志してきたわけではなかったものの、多くの人の願いの中で立候補を決意し、選挙運動を行い、全国から指示をあつめながら大統領選挙に臨みました。政党のカラーの黄色、そして人差指と親指を伸ばした「L字」マークは選挙キャンペーンの際に多く見られました。
 1986年2月7日に行われた投票ではアキノ婦人が80万票の差でマルコス大統領を破ったと選挙団体の発表がありつつ、マルコス側に与する中央選挙管理員会では160万票の大差でマルコス大統領が勝ったと発表されました。開票操作があったことが明らかになり、国内外からの避難が益々強くなります。
 
 同月22日には選挙結果に反対するエンリレ国防相フィデル・ラモス参謀長らが決起し「マルコスをもう大統領とは認めない」と表明し、国防省のあるアギナルド空軍基地に篭城しました。同時にカトリックのシン枢機卿カトリック教会が運営するラジオベリタスを通じて「ラモスとホナを守れ」と、聖職者、国民に訴え、彼らを両氏が篭城するキャンプアギナルドに面するエドサ大通りに集結するように呼びかけました。人のバリケードを作ることで軍の基地内への浸入を防ぐことが狙いでした。しかし、その時選挙の結果は不正であっても“政府”の発表ではマルコス大統領が勝利をしており、またアキノ婦人は全くの素人で、このままでは呼びかけた国民と軍隊がぶつかり、流血の自体になるのではないかとも懸念がありました。軍隊は「共産主義者が暴動を起こしている」ために出動しましたが、行った先はカトリックのシスターや一般市民たちばかりでした。出動した軍隊もカトリックのシスターや一般市民たちが作る人の鎖を暴力で断ち切るということはありませんでした。軍隊の一部も群衆に加わり、100万人もの人がエドサ通りに集まったといわれています。また、その人の波はマルコスの官邸まで押し寄せ、結局マルコスはそのままアメリカへの逃亡を余儀なくされ、20年の独裁政治に終止符を打ちました。

[革命から思うこと]
 エドサ革命によって何が変わったのでしょうか。
革命はひと時代の終わりを告げますが、それは新しい時代の到来を必ずしも意味するものではないということを歴史を見ていて思います。この無血革命を誇りに思う気持ちに水をさすつもりは勿論ありません。ただ、推し量られなければならないのは革命によって取り除いたあとに何が残り、何を新たに立ち上げないといけないのかということではないかと思います。
 フィリピンでは過去に幾度もの「革命」を経験しています。それはスペインの支配時期に始まっています。始めの革命は英雄ホセリサールのスペインからのからの独立、しかしホセリサールは過激で徹底した反対というよりはフィリピンはスペインの州のひとつとなり代表を送るべきだと主張したといいます。しかしながらリサールは好ましくない書籍を書き、民衆を先導した罪に問われて銃殺刑となります。アメリカの歴史家はボニファシオこそ、真の英雄だったといいます。ホセリサールの英雄視はスペインの支配後に台頭したアメリカが作った歴史観とも言われています。アメリカがフィリピンを統治するためには「暴力によらない」革命を目指した「英雄像」が必要でした。 
 フィリピンが本来革命によって得るべきだったのはなんだったのか?部外者がこれを簡単に断言できないものの諸外国の長年の統治によって失われてしまった統一国家としての概念だったのではないかとも思われます。カトリシズム的、殉教者的英雄を通じた歴史観アメリカによって影響を受けてきた歴史から一歩抜け出してフィリピンがより確実な一歩この記念日に踏みしめられるように願うばかりです。

 人の国のことをとやかく言う前に、自国の問題について何とかしなければいけませんね(ーー;)。全部論じるのは難しいのですがね。
この時期に安倍首相がアメリカに渡っております。首相のFacebookの書き込みをフォローし、ワシントン・ポストによる安倍首相へのインタビューを読みながら、日本もアメリカとの関係をどうしていくのか、外交的に「一人前」の国となるのにはどうすべきか、考えさせられています。今の関係では大人と子どもみたいなものです。それは特に自国の軍隊を持つか否かという話にとどまるのではなく、根本的に日本をどうしていくのかということかと思います。
力の強い外国に翻弄されているのは何も新興国だけではありません。自国の強い指針・軸が持てるように国民が汗をかいて考え抜いて実行しないとイケない、何ができるか?批判的に、建設的に物事を見つめること(マスコミが言っていることが必ずしも的を得ているわけではないから可能な限りオリジナルの情報を読む)、発言し、行動すること。後者二つは敷居が高いように思われますが、一人ひとりが考える国民とならないといけないからそれらは必要なことかと自分を省みて思うこのごろです。(ーー;)
ひとまず、ユースマニュフェストをつくって、ユースの政治参加を促している友人のお手伝いから・・・