世界旅日記

フィリピン人と結婚した日本人妻によるハロハロ(雑記)ブログ

戒厳令40周年を迎えて

今日9月21日は国連が定めた、国際平和デー。そしてフィリピンでは戒厳令が敷かれた日でもあり、人権などを考えるイベントも行われています。

戒厳令とは国民の権利を保障した法律の一部の効力を停止して、行政・司法権の一部ないし全部を軍隊の権力下に移行することをいいます。1965年にフィリピン大統領となったフェルディナンド・マルコスは1970年1月から3月にかけて起こった学生運動、増加した暴動、新人民軍の爆弾テロなどの政情の不安定化を理由にちょうど40年前の今日、1972年9月21日の戒厳令を発令しました。

この戒厳令により1935年憲法は停止され、1973年には戒厳令の布告中に、大統領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定、1976年には暫定議会選挙まで両職を兼任できるように憲法改正を行い、独裁政権へ、フィリピン暗黒の時代の幕開けとなりました。

マルコス支配に反対する、ベニグノ・アキノら有力者が拘束され、何千人もが北米に移住しまた、 路上でのデモといった反政府活動ではそのリーダーが即座に逮捕され、拘留・拷問もしくは、消息不明(強制失踪)となり、マルコス時代に亡くと言われる人の数は7500名以上と言われます。
旦那はその時代を直接経験しているわけではないのですが、お義父さんが地方からマニラに出たときに、Zonaと言われるものを経験したと聞きます。お義父さんは真夜中に軍の人間に家の外に出るように言われ、身体のどこかに刺青がないかと検査されるそうです。刺青はおしゃれ用の刺青ではなくて、囚人の認識番号としてその時代に使われていたもの、もしそれが見つかるとその人はどこかに連れて行かれ、拷問を受けたりするわけです。潜在的に犯罪を起こす、政情の不安定を引き起こす要素とみなしていたわけす。人権の侵害が日常的に行われていました。共産党員と同様、反政府活動家は都市から地方に逃れ、そこで勢力が拡大しました。

暗黒時代と評される時代に対して、あの頃は良かったという人たちもいるわけです。戒厳令と夜間外出禁止令施行後、国内の犯罪率が劇的に低下し、政情の安定は1970年代を通じて経済成長につながったと言われます。友人はマルコスの時代は1ペソの価値が今の比較にならないくらい高いものであったといい、また華やかな外交を行い、フィリピンでの国際社会のプレゼンスはアメリカのサポートを得ながらも高かったと評価しています。知人いわく、マルコスの政治家としてのカリスマ性、頭の良さは今の大統領と比較できぬほどずば抜けたものがあったと当時を振り返ります。実際小柄な男性でありながらも人前で話せば一回りも大きく見えると言えるほどのパブリックスピーチの名士であり、彼の出身イロコス地方ではマルコス博物館に彼の遺体が保存され、今も毎日のように人が訪れています。

40周年を迎えて、当時をどう振り返るのでしょうか。
私の友人はNGO関係、学者関係が多いので反マルコスの人が多いです。友人(といってもかなり年齢が上ですが)の旦那さんは旦那さんが軍によってある日突然連れ去られ還らぬ人となったり、罪状も不明なまま拘束され、そこに当時小さかった子どもを抱えて通い続けたと話してくれました。この40年という節目を彼らは特別な思いで迎えるのだろうなと思うと何とも言葉がでません。マルコス政権の後、アキノ政権になり、フィリピンの民主主義が息を吹き返したと言われます。しかし、フィリピンの国力は落ちたと評価されます。

40周年を迎えて、マルコス政権の時代に強制失踪などの人権侵害で犠牲になった人たちの博物館がつくられました。マルコスの子どもが次回の大統領選への立候補に先駆けて、行なった選挙運動の一連の動きだと私は捉えていますが、マルコス独裁政権とフィリピンの一連の革命への再検討、さらなる深い議論につながればと思いました。