世界旅日記

フィリピン人と結婚した日本人妻によるハロハロ(雑記)ブログ

外国人留学生への理解に務める

大学院留学で思い出すのは某国出身の男性。入学式で話をした時に、不思議を通り越して今まで聞いたことのない笑い方で笑う(ははは、でもヒヒヒという笑い方ではない)、しかも笑うタイミングが読めない。彼をどう扱っていいのか、悩ましかったことはいまでも鮮明に思い出されます。まさかその国では皆こういう笑い方なのではないか?と思えるほど独特でした。独特の笑い方は決して変わることがなく、最終的には慣らされました。

また、某国からの学生は同居人とシェアして購入した機器を自国に持って帰ってしまったという話もも聞いたことがあります。自分の所有を主張するのはいいけど、ほかの人の所有権はどうなるの?と疑問が残ります。

さて、ここヨーロッパでは?

いろんな国の学生に会います、中国、インド、インドネシア、インド、フランス、ベルギー、ドイツ…などなど。私は学生ではないので、学生同士の面白い、もしくはちょっと困った人たちの話は聞いたことはないけど。。。やっぱりどこにも、ちょっとこまった人たちはいるもんだと思ったのは旦那の体験談。

某国からの留学生と同じ屋根の下で生活しているときに共有場所を汚く使い、更にたまに掃除をすると張り紙をして「僕が掃除したから、汚さないように」とか付箋メモを残し(笑)、それはいいけど、彼が引っ越すときに旦那の購入したばかりの歯磨き粉を持ち逃げ(爆)小さいものだから・・・と思ったものの彼に連絡を取ると、「君のなら君が取りに来い」というメール。誰が悪いんだかよくわからない。

旦那曰く「彼が自分の持ち物間違えるハズは絶対ないんだけどなぁ」とのこと。何回ものやりとりの末、結局旦那が取りにいくことに・・・謝罪は一切無し。悪いと思わないんだ〜と変に関心。

上記と同じ国からの学生が違う場所で引っ越すときに、私が晩御飯用にとすでに調理して台所に置いておいた2つのタッパーをそのまま持ち去り(決定的目撃証言はなし、しかし物証有り)。何故勝手に持っていくのか理解に苦しむのでした。
上記の2つの事例から、以下のような仮説を考えました。

某国の学生は引越しの際に、他人のものと思しきものも持っていく、その理由は・・・
① 自分の所有しているものを忘れてしまうよりはいい。だから、所有が限りなくグレーなときには、ためらわず持っていく。
② 自分の中での引越し祝い→Good Luckのような意味合いがある。
③ 送り出す方がお祝いをあげないといけないが、もらっていないので強制回収
④ 単純にそのものが必要だったから、引越しで物入りでいただいた
⑤ 生活しているときに感じた怒りと苛立ちのはけ口として、悪意をもって行なった(^^;) 慰謝料としての強制回収

もう一つの事例があったら、私の仮説の絞込みができるのですが、今のところ考えられるのが上記。④と⑤は少々考えるとしんどいので、除いて①〜③の中のどれかか、もしくは誤って持っていったと考えることに。旦那と言っていることは、「きっと間違えたんだよ」と。けど、某国の学生さん自分の所有意識は明確にあったので考えづらいというのが本音だけどね。①〜③にしても、自国の風習だとしたら、それを海外でやるのは間違っているわけです。

これらの話はまだ害が少ない方。

自国に彼女がいながらも、海外に出ると途端に自由になり、女の子を口説き付き合ってはわかれる某国男性。近頃はFacebookなどがあり、何らかのきっかけで彼女が知るところに。しかし、自国に帰ると元サヤなんて話はちょくちょく聞く話。その国の男性は女性をこのように扱って、女性もそれを仕方ないながら受け入れているとかいう話を以前友人が言っていたけど、こういうことを目の当たりにしていると、信じてしまう。

何百人もの外国人の友人を持てば、●●国の人はタチが悪い、▲▲国の人は傲慢だなんてステレオタイプにこそならないものの、母数(出会う人の数)が少なくてすごいヒット率−出会った少ない数人が悪い印象を残すとやっぱり、その国のイメージに多少影響するよなぁなどと思ってしまう今日このごろ。逆もまた然り。人のふり見て我が振り直せ。それらの出会いから私自身も振り返るのと同時に、他国の風習や考え方の根源を学ぶことの重要性を感じたのでした。

ナイメーヘン、スティーブン教会

朝は濃い霧が立ち込める典型的な10月のオランダの天気でしたが、霧の合間から見える太陽から、霧も晴れるであろうと予想し、予定していた町の教会、スティーブン教会:stevenkerkの塔に言語パートナーのハンスさんと共に登りに行きました。私の関心が歴史や文化であるため、ハンスさんは教会とその周辺の歴史に興味があると、思い立ち今日の教会訪問を提案してくれました。

教会とその塔は第二次世界大戦中に連合軍に誤爆され、街と共に大部分が破壊されてしまいました。ドイツの国境に近い街故に起こった悲劇です。塔は大戦後の1948年から5年、教会は20年の歳月をかけて再建されました。

自転車を教会の近くに止め、入場料4ユーロを支払いいざ入場。狭い入口かららせん状の階段が果てしなく続いて行くようです。階段は全部で200段ほどあります。

しばらく階段を上ると、一室区切られた部屋のような所でひと息つけるようになっています。そこには再建される前の教会で使われていた十字架、螺旋階段の中央部に使われていた木製の柱、屋根に設置されていた水はけであり魔女除けのための悪魔たち、15世紀にナイメーヘンの職人によって作られた鐘が並んでいました。

魔女除けの悪魔とは、魔女が箒にまたがり教会を壊すという迷信から、彼らを怖がらせ近づかないようにするために置かれた置物であり、雨水のはけ口です。私は、こんな悪魔を置いたら魔女も仲間が居ると誤解して、居心地良く感じてかえって居座ってしまうのではないかと素朴に思いましたがこればかりは魔女に聞いてみないと分かりません(汗)。

もう少し階段を上ると今度は、展望台の階に到達します。市が作成した時計塔の歴史、そして今後の都市計画を紹介する映像が小さなスクリーンで上映されています。その小部屋から一歩出ると、360度のパノラマが広がります。ワール川にかかる3つの橋が見えます。「遠すぎた橋」の撮影場所となった橋も観覧車の後ろに見えます。

更に、階段を上ると更に小さな部屋があり、そこにはカリオン奏者の演奏している姿がありました。

カリオンは鐘楼建築物に演奏用の鐘を設置したもので、鍵盤で演奏される楽器です。ヨーロッパの街角で時に耳に入ってくる、鐘による演奏はこのカリオンによるものです。大変幸運なことに、月曜日は市に雇われているカリオン奏者が演奏する日でしたので、生でその演奏を聴くことが出来ました。奏者が出勤していないときには、自動演奏に切り替わっているようです。

許可を頂き、撮影したビデオをyoutubeにアップいたしました。教会の建物の外で建物を眺めながら聞くと趣があるのかもしれません。映像をみて頂くと分かりますが、演奏をする際に鍵盤を押す音がしっかり聞こえ、演奏に体力が必要なことを伺わせます。

鐘の数は48個、残念ながらこの部屋からはみることが出来ない場所、ちょうど真上に設置されています。低音を出す鐘は重さ2トンほどもするのだとか。

時を告げる鐘はカリオンとは別物です。ただの教会の塔ですが、そこに歴史あり。お勉強になった一日でした。ハンスさんどうもありがとうございました。

ティーブン教会

所在地:Sint Stevenskerkhof 62 6511 VZ Nijmegen

公式ウェブサイト:http://www.stevenskerk.nl/

時計塔の入場料:4ユーロ(2013年10月現在)

月曜日11:00から12:00までカリオンの生演奏が聴けます。

いつもと違う日曜日を

 旦那は毎週ミサに欠かさず通う、カトリック教徒。
ミサに集まる学生・社会人たち、バラつきがあるものの数回通えば大体レギュラーのメンバーを知ることが可能になります。ミサの後は、コーヒー・紅茶、クッキーなどを楽しみながらひとしきり話すというのが定番のメニュー。

 旦那も含め、何人かがもっとコミュニティのような雰囲気が出たらいいよねぇと話していました。一緒にお茶を楽しむのも一種のコミュニティ活動ですが、なんともパターン化されたこの日曜日から脱することができたら・・・一同、ため息。

 そこで、出来た企画が「5 pm Mass ++」 、夕方5時からのミサにプラスアルファして何か企画を行うというもの。
ミサ+活動+軽食のセットでミサ、プラス+プラスとなっています。軽食は今のところ、パン、スープ、サラダの簡単なもの。とは言っても準備で結構時間が取られそうな予感。

▲広告制作、ご協力させていただきました〜

 きっかけは4月末日曜日、ミサが終わったあと、何かできないものかと思案中、中国から来た博士課程の研究者のピアノ演奏聞き、音楽ならみんなが楽しめるということで急遽思いつき、企画を実行することに。中国からの研究者は、特にクリスチャンという訳ではないらしいのだけど(特に宗教の有無を聞いたことがないからわからない(^^;)、中国でピアノの先生をしており、こちらに来てピアノを弾ける場所を探していたようです。背が高く、綺麗な女の子で、私の典型的なピアノの美人演奏者とぴったりです。その彼女の故に初めての企画はMusic Might(音楽の夕べ)となりました。
 
 「Our Sunday may never be the same again!」いつもと違う日曜日を提案します!と銘打って、基本的にはミサ参加者を対象に企画しました。基本皆忙しい学生・研究者・社会人の集まりなので告知も簡単に、Facebookで呼びかけ、知り合いにも数人声がけしました。
 中にはクリスチャンではなく、企画だけに関心を持つ人たちもいるだろうということから、一応オープンにしています。

 企画の途上、その美人ピアニストがコンサートで歌う人を募集しているという話を聞きました。私はてっきり、教会の聖歌隊なども一緒だろうと二つ返事で「いいよ」って言ってしまったのですが、言ってから後悔したのはボランティアで手を挙げたのが私だけだったこと(ーー;) 後悔。

 しかし、約束は約束。そして女は度胸だということで2曲を披露。カーペンターズのYesterday Once Moreと松任谷由実の春よ来い。選曲理由は、練習時間が殆どないので比較的難しくないものと、皆に馴染みがある曲を混ぜて見ました。

Yesterday Once Moreはピアノの伴奏と共に。。。 

 前日から材料の買い出し、そして当日はサラダ作り当番だったので急いでサラダを準備。バタバタの中でミサが始まり、その流れでMusic Nightスタート。ピアノ、素晴らしい演奏でした〜。ショパン、ベートーベン、モーツアルト・・。私のお気に入りla Campanellaまで。久々のピアノの生演奏にうっとりです。

 演奏が終わったあと、おまけ演奏の私にも皆さん温かいコメントをくださいました。マイクで歌っているのかと思った・・・いえ、アカペラ(マイクなし)で、何とか歌いきりました。声はでかい方なので、マイクなど持たされたら、最低5センチは離します。小さいコンサートだったら、マイクなしで結構。
 感動した〜と言ってくださったのですが、素直ではない私は、「きっと日本人の歌うのを生で聞いたことがないからだ」と思ったりもしましたが、ポーランドからの学生さんがじっと私の目を見つめ、「とってもよかった」と言ってくれたので、その言葉をひとまず信じたいと思った次第です。

しかし、いつもと違う日曜日を企画側である私もこんな形で楽しむとは。。。来週の企画は演劇ワークショップ。来週は楽をさせてもらいます。

 
 

SINULOG 2013 - KITANG TANAN MAGSINULOG 2013 VIVA PIT SEÑOR SANTO NIÑO シヌログ2013告知

 イベントの告知です。
オランダ、ナイメーヘンでシヌログ祭を再現します。
シヌログ祭は、セブ市の中心にあるカトリック教会−サントニーニョ教会のお祭りで、幼い頃のイエス・キリストを模ったサントニーニョ像が市内を行進します。音楽、踊りとかなり賑やかです。

 オランダでは勿論そのような華やかさはありませんが、以下のようにささやかなイベントとして開催します。チラシ制作協力させていただきました。宗教的な行事がメインなのですが、フィリピンの文化を知るにはよいイベントです。

 是非是非お越し下さい。

Invitation

Theme:“Señor Santo Niño, Your Tender Love is Our Refuge”

Come and join the annual Sinulog Feast Molenhoek in honor of Our Senor Sto.Niño and Blessed Virgin Mary!

There will be a procession of the images of the Holy Infant Jesus Señor Sto.Niño and the Blessed Virgin Mary around the church area. Afterwards, a Holy Mass will be celebrated by the community. This annual celebration is to give thanks to Sto.Niño for all the graces, be they material and spiritual. This year’s theme invites us to find refuge in His tender love amidst the challenging times of today.


Other highlights are: a cultural showcase of Sinulog dance & modern disco; and of course a community dinner.
Live music will be provided by the “De Sound Set.”

Pre-activity for the Sinulog is a 9-day novena beginning on Friday 6 September.

Date & Time: Sunday 15 September 2013, 11:00 onwards
Venue: Onze Lieve Vrouw van Smarten, Station straat 62, Molenhoek

For Reservation & more info: please contact:
Fr. Rudo Franken: 024-696190
Renna Rombouts: 024-3584404 / 06-22923481
Susan de Groot: 024-6425712 / 06-33823212
Nitz Rabino: 057-5785302 / 06-47228766

Entrée Fee –10 euro, p/p incl. warm buffet


 

マニラでの生活のコツ(2)−宿泊先を探す編−

 マニラ滞在で気になるのは滞在先。短期にせよ長期にせよ安全、快適、お手頃な値段の滞在先を見つけたいものです。お値段が高くてOKであれば、ある種宿探しは困らないと思うので、安くそして、安全に考慮する宿探し情報を特に初フィリピン、あるいはフィリピン数回目の方にシェアしたいと思います。

[短期滞在の場合]
 マニラは、怖い場所。そう思われてしまっています。住んでみた経験からするとそれほど危険!というわけではありませんでしたが勿論、絶対安全とはいえず、外務省渡航関連情報、海外安全ホームページではいつも注意を呼びかけています。
 外国人が巻き込まれるであろう犯罪や事件の種類は軽微な犯罪、すり、置き引きから、詐欺、誘拐、自然災害に巻き込まれる。先日、旦那の故郷の活火山マヨン山に登山中の外国人登山客が火山の噴火に巻き込まれ5名の死亡が確認された他、負傷者多数というニュースがありました。油断はできません。程よい緊張感を持つこと、現地のニュースをアップデートすることが大切だと感じます。

短期滞在のオプションは、基本地球の歩き方ロンリープラネットなどを参考にするといいと思いますが、一応以下に上げるとこのようになります。
①ホテル/ホステル/イン
NGOが運営する宿
③友人宅
④カウチサーフィン
ノマドシェア

①ホテル/ホステル/イン
[場所選び]
滞在目的によって宿泊場所が変わりますが、マニラ市マラテ・エルミタなどの繁華街にあるホテル/ホステル/インはよほど立地上の利点がない限りはおススメしません。怪しい人にあう確立も高くなるでしょう。
ケース1:友人がその地域で食事をしていたら、パスポート・現金をなくして困っているという外人に会いました。優しい友人はそんなに困っているならと、ホテルの部屋をシェアし、パスポートの再発行のためのお金を貸してあげたそうです。で、その人は勿論お金を持ってどろん(ーー;)友人は、大使館に届け出るも泣き寝入りするしかありませんでした。こういうケースに皆が合うわけではありません、念のため。
マニラは電車が通っておりますので、その電車の駅や幹線道路などから近いというのも選ぶポイントになると思います。
マカティ:ビジネス・商業地区。電車の駅から遠くなりますが、タクシーがつかまりやすく、空港からも近いです。
ケソン市:空港からタクシーで1時間から1時間半かかりますが、

コンドミニアムの部屋の一室を開放している場合があります。

NGOが運営する宿
 ケソン市にあるisisというNGOのビルは数が限られていますが、宿泊施設が整っています。isisでの宿泊は門限付きですが、食事も用意してくれます。何より、フィリピンの典型的な木造作りの建造物です。また大学構内にある建物で、NGOが管理する場所があります。アテネオデマニラ大学のISOでは、研究者などが短期で滞在できるようになっています。お値段は1,500〜3,000円程を見ておいたら良いと思います。
このオプションは私のお気に入りですが、タクシーで向かうときは運転手さんがうまく見つけられない場合もあります。ですので、住所の他に目立つ建物の有無などを予約時に聞いておくのもポイントです。

③友人宅
 フィリピンに友人がいるのでしたら、安心ですね(^_^;)ただ、立地は聞いたほうがよいでしょう。

④カウチサーフィン
 カウチサーフィンに登録しているメンバーの家に泊まる仕組みで、現在130万ほどの会員がいるとか。私自身、他国への旅時に、一つのオプションとして考えてみるのもいいかもしれないと思う今日このごろです。

ノマドシェア
 マニラのノマドシェアは短期滞在なら一泊素泊まり500ペソ(約1000円)から利用できるシェアハウス。友人がマニラ滞在に利用していました。

[中長期滞在の場合]
 これはホテルに宿泊するよりはどこか月単位で場所を借りたほうが安く済みそうです。
短期滞在の場所を拠点にして以下のオプションから場所を探せるのではないでしょうか。
学生寮
コンドミニアム
③個人民家の一室を借りる

学生寮
 滞在が勉強目的でない場合も、空きがある学生寮に受け入れてもらえる可能性があります。ただ、学生寮の契約は最短で半年契約というのが殆ど。そして、半年にみたない場合は、半年分払えと言われることがただあります。私の知る学生寮は短期の滞在もOK。そういった場所がいくつかありますが、探すのに困難かつ、いつも人気です。
値段は一ヶ月、3,000〜10,000ペソほどです。安い場合はお部屋のシェアという場合もあります。

コンドミニアム
 コンドミニアムの管理オフィスに訪れて交渉です。上記のように半年、1年という契約がほとんどですが、大学に近い場所になると中長期滞在を受け入れてくれる場所があります。コンドミニアム、家具付きで8,000〜20,000ペソ程です。20,000ペソもするのはお部屋がいくつかある場合です。友人とシェアして住むというのも利点があります。

③個人民家の一室を借りる
 街中を歩いていると電信柱に住居者募集の張り紙、あるいは軒先に貼っている場合があります。フィリピンの一般的なお宅の様子を知ることができる、またそういう家の場合はフィリピン人でお勤めをしている人がお部屋をかりていることもあるので、友達になってフィリピンの文化にどっぷりという楽しみ方もありおススメですが、交渉力と現地の金銭感覚が必要です。初めに①月の寮費がいくらで、それには何が含まれているのか②出るときにはいつまでに知らせなければならないのかは必ず聞くべきです。ちなみに①はパソコン一台の持ち込みにつき100〜200ペソの加算、携帯の充電に100ペソ加算など細かいメニューがあることもしばしばです。日本円で4、500円の加算ですが、あとから要求されるというのは気分が悪いものです。ちなみに4、500円の加算に何が変わるのかと思われるかもしれませんが、電気代が高いフィリピンでは月の電気代の支払いに大いに足しになります。

全体的に
 ドアの鍵がしっかり掛かるのかを確認すること。壊れている、締りが悪い場合は部屋を交換してもらうように交渉すること。
交渉の際、一歩も譲らない気持ちと毅然とした態度が大切だけど、高飛車には決して頼まないこと。フィリピン人は親切・そして人間関係を非常に大切にするひとたちですので、本当に困っている・鍵がかからなくて心配している様子を伝えれば、協力してくれます。ただ、高飛車・高圧的に頼んでしまえば、その人間関係も築けません。権利を主張する以前に、地元の文化に即してアプローチする方法をおススメしたいです。※何度となく強く言いすぎて話がこじれた−などの失敗談をきいています。
 あと、当たり前ですが部屋に貴重品を置いておかない。友人がバックパックの底に隠しておいた現金が盗まれました。ホテルにセーフティボックスがある場合は預けるのがよいです。セーフティボックスがない場所は個人管理となりますが、持ち運びの際はスリ・置き引き注意です(置き引き犯行の鮮やかさがyoutubeにアップロードされたのを見たことがあります)。

 フィリピンは、タイなどのようにほかの国と地続きではないために「フィリピンに行く」ということを目的としない限りは、行く機会がなかなかない国です。然し、近年フィリピンの語学留学ブームなどがあり、学生さんの渡比が増えました。語学の他にも見所盛りだくさんのフィリピン、是非長短期の旅行のオプションに♬

 

フィリピンの義母と旦那の関係

今週のお題「私のお母さん」

 「いま思うと、これまで多くの困難を乗り越えてこられたのは、紛れもなく彼女が導いてくれたからだ・・・そして彼女はいつも私を感化してくれる存在です」現在公開中のドキュメンタリー映画『Don't Stop Believin': Everyman's Journey(邦題:ジャーニー/ドント・ストップ・ビリーヴィン)』のアーネル・ピネダの言葉です。
 アーネル・ピネダは、無名のフィリピン人シンガーでしたが、youtubeで彼の歌う映像を見たアメリカのバンド・ジャーニーのメンバーに推され、オーディションを受け、メインボーカリストととして向かい入れられ、現在も活躍中です。40歳で無名のシンガーが停滞気味であった有名バンドに入り、それを蘇らせ、アメリカで成功するというのは絵に書いたようなシンデレラストーリ。そこに行き着くまでに、最愛の母が早くに亡くなり、路上での生活を経験し、その後バーを渡り歩くバンドのシンガーとして生計を立ててきました。早くから歌の才能を見た彼のお母さんは、彼に歌を歌うことを強く勧めていたようです。苦しい時代を支えて、自分を信じることをやめなかったのはお母さんの影響だといいます。

▲旦那の故郷の山
 距離にして約10,600キロ、それでもオランダにいる旦那と郷里の義母は繋がっております。先日のフィリピン文化のプレゼンテーションの時に受けた「今、一番何が恋しいですか?」という質問に旦那は「お母さん」と答えています。恐らく質問した人は、フィリピン料理や気候、場所などと答えることを想定していたと思いますが、間髪なしの答えに苦笑いでした。旦那の弁解では、以前は妻が恋しかったけど、今は妻は一緒にいるのでお母さんと答えたと言っています。
 フィリピンで母と子、特に母と息子の関係は私が見てきた限りとても近いと思います。フィリピンに残る風習、10〜11歳頃に行われる割礼を堺に男の子はお母さんから徐々に距離を置き、自分の世界を築いて行くのですが、それでもやはり「お母さん」と恥ずかしげもなく、べったりなのです。

 年老いて、昔はとっても怖かったお母さんが今ではとっても穏やかになり、涙もろくなったと旦那は言います。現に、私たちのささやかな結婚式ではボロボロ泣いていました。7人の子どもの中で唯一結婚して居なかった旦那が所帯を持つことの嬉しさと、離れていく寂しさもあったのだと思います。厳しいながらも旦那のやることにはそれほど口出しはせず、見守ってくれていたそうです。

 旦那が結婚・そして研究の関係で国を離れてしばらく経ち、お義母さん、電話代がかかると言うのにあまりに寂しくなって国際電話で電話をかけてきたことがありました。勿論旦那もお義母さんに安否を知らせ、お義母さんの様子を知るために電話をかけますが、その電話を待ちきれなかったようです。電話で話す時間はわずか3−4分。それでも、声を聞くことができるというのは嬉しいこと。家族とのつながり、特にお義母さんとのつながりが、彼の強さと自信の起源なのだと感じる今日このごろです。

 前述のアーネル・ピネダ氏、彼を支えるのは現在の彼の妻や子ども、家族もそうですが、亡くなったおお母さんです。旦那は言います、お母さんには一生かけても返せない恩義がある。この世に自分を産んでくれたことだと言っています。私たちの多くはこういった思いを心の深いところに秘めつつもこれほどに自分の生をポジティブに見つめて、その原因であるお母さんに対して感謝の気持ちを素直に表現する人たちってあまりいないのではないかと。

 今年の母の日。感謝の気持ちを少しでも素直に表現したいと思いました。
 

 


 



 

「第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」に徒然ながらに想うこと

 5月8、9日は国連が定めた、第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日Time of Remembrance and Reconciliation for Those Who Lost Their Lives during the Second World Warです。

 国連が、第二次世界大戦が終わってから60年を記念し、国連総会では決議59/26で5月8日と9日を追悼と和解の日に指定しまし、同時に、第2次世界大戦中に命を失ったすべての人々に哀悼を捧げる日として毎年世界中で記念するよう求めました。

 オランダでの先日の開放記念日、戦争に関わる記念日が続いていますが、今でこそEUが組織され、平和を享受するヨーロッパの国々、この土地は世界史で習ったごとく古くから戦争が繰り返されてきた土地であります。第二次世界大戦のみならず、愛する人、家族に囲まれた安らかな死を迎えることなく散っていった多くの命に哀悼の意を表したいと思います。

 第二次世界大戦、オランダは中立宣言にもかかわらずドイツに本国を占領され、まもなくオランダ王家はイギリスに亡命しました。
 1944年9月に連合国軍がマーケット・ガーデン作戦(国内の複数の河川を超えるため、そして兵站を補うため空挺部隊を使用し、多くの橋を奪取する作戦)を実施しするものの、作戦は成功せず、アイントホーフェンおよびその周辺地域を解放したものの、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏以降なされました。

 アメリカは自国領土内を除いて世界に24箇所、American Battle Monuments Commissionが運営する米軍墓所を運営しています。オランダの南部の都市アイントホーフェンにも墓所があります。マニラのアメリカ軍人の墓所を訪れた時にその管理をしている方が、オランダの墓所は現地の人が自分の家のお墓のように受け入れ、管理している場所と聞きました。オランダ人の気質がそうさせるのでしょうか。

 昨年の今頃、日本からの学生にアテンドしてマニラの観光案内と簡単な歴史の説明した時に、訪れた土地柄日本の占領時代の説明は避けることができませんでした。私がご案内したのはイントラムロス−スペイン時代の建物が残る歴史地区とアメリカ人墓地でした。イントラムロスはスペインによるフィリピン植民地時代の影響が色濃い場所であると同時に、日本の占領下では軍の司令部として使われた場所でした。スペインの歴史建造物の所々に第二次大戦の時にそれらの建物がどのように使われたのか、など説明されています。
 
 一通り説明が終わったあと、学生さんからの質問で「日本が悪いのですか?」と質問を受けたことが今でも心に残っています。そんなつもりで説明した訳ではないのですが、フィリピンが日本の占領を受けたということと、フィリピンが連合軍アメリカの影響を戦前・戦後多く受けているため加害の歴史の側面が多かったことは否めません。(アメリカとフィリピン間も戦争と虐殺など血なまぐさい歴史がありましたし、戦争前はフィリピンに経済移民する日本人も結構な数おり、文化的にも色々な影響をお互い受けました)
 この質問に対する答えは簡単ではありませんが、高校生の素朴だけど奥行きのある質問にコスモポリタン的ですが、以下のように他の大人たちと共にコメントさせていただきました。命を軽視した組織的殺戮行為は永久に葬られるべきであること。そのために、日本では戦争は過去のものとなりましたが、今でも紛争地域に生まれ、住んでいる人たちがいるのでそれらの人たちに関心を払っうこと、イマジネーションを持って欲しい−紛争下では兄弟やお父さんは恐らく戦いの最前線に送られていただろうこと−自分に引き寄せて問題を見つめてはどうか?と提案させていただきました。
これは、私が「紛争と平和」の問題に興味を持った始まりにも当てはまります。幼少期、戦争映画などを見ると決まってその晩は自分が戦争を疑似体験するのでした(ーー;)→影響受けすぎです。 
日本側で戦争に関わった方がNHKの戦争証言アーカイブにインタビューとして残っていますので、これもおススメしたいです。日本は8月にならないと戦争について思い出す機会がありませんが、先祖が通った歴史として戦争の色々な側面を学ばなければならないと自分自身にも言い聞かせました。 

 ヨーロッパは平和を享受しています。民主主義国家同士は戦争をしないという理論がありますが、民主主義と経済体制が高度な相互依存を生み、協力する>戦うことよりもメリットがあるというのがEUの根底にあるとヨーロッパにいて感じます。
 経済発展と結果としての相互依存を現在起こっている紛争にどう当てはめられるのか・・・経済と平和の関係を考えます。